京都で仕事をしているので、いわゆる伝統文化と呼ばれるものについて考えることが多い。
「社会の仕組みが目まぐるしく変わる現代において、衰退の一途をたどっている」
といったお決まりのフレーズが付きまとうものが少なくなく、担い手の努力は相当のものだ。
大切な何かを失ってしまうようで、伝統が途絶えないようにと祈るばかりだが、
その伝統とは、いつ始まったもので、いま誰がそれを必要としているのか?と、
少し突き離して捉えることも必要な気がしている。
そもそも、ボクらの世代(アラフォー)が起点となる「文化」とは何に当たるのだろうか。
アニメや、マンガ、ゲームといったものになるのだろうか?
そんなことを同世代にあらたまって聞いたことはないのだけれど、
「ガンダムのプラモデル」を挙げる人は存外多いのではないだろうか。
アニメ、マンガ、ゲームといったものの影響を受けながら生きてきた自覚はあるが、
一種のメディアとして成長してしまったものに、文化的な手触りを感じることはない。
完成品としてのフィギュアが登場してもなお、未完成の状態で受け手に差し出される
プラモデルには、この先、数十年後には無くなってしまうかもしれないという
「伝統文化」的な香りがあるように思う。
空想の世界のロボットを自分の手にしてみたいという少年たちの思いに応えた
ガンダム(や派生作品)のプラモデルは、ダイキャスト製の玩具を過去のものとした。
「よりリアルに再現を」と希望する消費者に、メーカーが職人的な対応を見せて
商品力を高めていったことも、江戸時代の浮世絵がそうだったような粋を感じさせる。
「ガンプラ」が初めて世に出されたのは、1980年。
アニメ作品に登場したロボットに近づけるためには、一色成型のパーツを塗り分けて、
可動しない関節に改造を加える必要のあったプラモデルキットは、
塗装を必要としない多色成型のパーツや、自由なポージングを可能にするポリキャップなど
技術的な進化を遂げて、今日に至っている。
同じキットを、いかに他人よりカッコ良く仕上げるかといった「競い」の要素が、
工芸的な趣味(ここがゲームと違う部分だ)。と上手く融合したパターンなのだろう。
「受け手に仕上げを委ねる」といった点が、優れて文化的だと感じる次第である。
さて、問題はこの「ガンダムのプラモデル」が、伝統文化として残り続けるかということだ。
果たしてメーカーの努力だけで、「生き伸びることは出来るか?」と心配になる。
箱に、アニメ作品の画像を使うのではなく、イラストレーターを起用して、
作り手のイメージや創作意欲をかき立てる挑戦は、いつまで続けられるのだろうか。
「いま誰がそれを必要としているのか?」などと、後の人に言われるのだろうか。
聞くところによると、近年、海外のファンも増えているという。
そう言えば、ガンダムの比較的新しいシリーズは、主人公が乗るロボットのデザインを
海外の著名なデザイナーに任せるなど、外からの刺激を求めた。
「クール・ジャパン」政策に、別段ケチを付けるつもりはないが、
もし、国内で衰退、あるいは硬直し始めているものを海外に売りつけようというのであれば、
求める成果を上げることはできないだろうと思う。
良き時代を憂うのは仕方がないが、それが文化として世の中に定着するまでに、
何を駆逐し、何を変えていったかに目を向ける必要があるのではないか。
また、相手にすべきは「いまを生きる人」に他ならないのだから、
いつまでも、いなくなってしまった人たちと作った過去のスタイルにこだわらず、
たとえゆっくりであろうとも、意識的に変化を続けなければならない。
…などと、いくらもっともらしいことを論っても、
いい歳のオトナがプラモデルを作ることは、家人にとっては理解しがたいことかもしれない。
(むしろ、受け入れられないことすら文化的だと思ったりもするが)
「文化」として認められる世の中になれば、絵画と同じように高尚な趣味として映るのだろうが、
果たして、そんな時代は来るのだろうか。そして、そんな時代まで生きているのだろうか。


