2013年4月19日金曜日
食玩
ハーレーダビッドソンウルトラクラシックエレクトラグライド…が好きなわけではなく、
コンビニ売りのドリンクなどに付いている、いわゆる「食玩」が好きだ。
特に昨今のものは、すっかり、おまけの域を越えているような気がする。
ターニングポイントは、公正取引委員会がサントリーに警告を出した2005年あたりか?
ペプシコーラに付属するガンダムSEEDのボトルキャップが、
「中身が見えないので、景品ではなく懸賞品に当たる」と認定を受け、
懸賞の上限価格を超えると指摘されて、サントリーは袋を透明なものに変えて、
懸賞品ではなく、あくまで景品であるという対応を取った。
以降、「見せること」を余儀なくされた飲料に付く食玩は、
偏りなく商品を売るために、どの「景品」も、高いクオリティが求められるようになり、
一気に技術が高まったのではないか。
今や、飲料の方がおまけのように感じてしまうのだけれど、
公取はこのような事態を予想していたかのだろうか?
それにしても、缶コーヒーって、もう少し美味くならないのか?
2013年4月14日日曜日
すがすがしい
以前、このブログで「天之真名井(あめのまない)」という、
何だか冗談みたいな御神水を毎週汲みに行っていることを書いた。
市比賣神社には、その後も幾度となく通っていたのだけれど、
手水舎にあるこの文字を「すがすがしい」と読むことを今日初めて知った。
「清」と「浄」を合わせた文字として、長瀞町や瀞峡といった地名に使われる
「瀞(とろ/どろ)」をいう字がある。「瀞」という漢字自体、
「清らか、清浄、きれいな水」という意味があるのだけれど、
トロ、ドロという音のせいか、どうもそんな印象を持ちにくい。
手水舎に刻まれている文字と言えば、「洗心」が多いように思うが、
「心を洗え」と言われるよりも、「すがすがしい」と言われた方が、
何となく気分が良い気がする…というのは、あくまで個人的な感想である。
2013年4月11日木曜日
宝瓶の試作
とある清水焼の作家さんにお願いしていた
…などなど、理想とするポイントを上げたところ、
急いては良いものを作ることはできないと分かっているけれど、
でも、急須だしなあ…いやいや。
「宝瓶」の試作品が上がった。
「宝瓶(ほうひん)」は、玉露を入れるときに使用する急須の一種。
ごく簡単に言うと、「取っ手のない急須」である。
抽出温度の低い(60度前後)お茶を入れるためのものなので、その必要がないのだ。
「絞り」と呼ばれることがあるように、手の中に納めて「最後の一滴」まで出すことができる。
これが、なかなか手に入りにくい。
京都市内の某百貨店さんでは、店頭はおろか、
取り寄せカタログでも扱っていない。
日本茶も紅茶も入れられて、家族用にも来客用にも使える
これが、なかなか手に入りにくい。
京都市内の某百貨店さんでは、店頭はおろか、
取り寄せカタログでも扱っていない。
日本茶も紅茶も入れられて、家族用にも来客用にも使える
ティーポットに押されて、小型で、取っ手のない「宝瓶」は、
「売れない商品」として姿を消してしまうのかもしれない。
…ということから、作家さんに話を持ちかけたという次第。
注ぐ時に茶葉が動き過ぎないような形状であること。
注ぎ口は、葉が詰まることもある茶漉し式ではなく、
茶がスムーズに流れながらも、葉が漏れにくい開放型にすること。
蓋や外周は手に収まりやすい形状にすること。
…などなど、理想とするポイントを上げたところ、
相当苦心されながら、作家さんが(現時点で)たどりついたのは、
オリジナリティを加えるには、手ごわいアイテムだということが分かったのが、
今回の試作品と打合せの大きな成果だ。
それでもやはり、現物を手に取ると、様々な気付きや、
急いては良いものを作ることはできないと分かっているけれど、
でも、急須だしなあ…いやいや。
2013年4月6日土曜日
「そやし」という言葉
住まいの裏を流れる高瀬川の桜も、今週末で見納めだろう。
四条通、あるいは五条通へと、普段は通り過ぎるだけの観光客が、
この時期ばかりは、カメラを構えて立ち止まるものだから、
ちょっとした誇らしさと同時に、気疲れを感じる季節である。
京都で過ごすようになって、15年ほどになる。
さすがに「よそさん」ではなくなったと思うのだけれど、どうだろう?
土地に馴染むということが、その土地の言葉に馴染むということなら、
ボクはまだまだ京都の人間であるとは言い切れない。
そう感じさせる言葉の代表格が、「そやし」である。
「そやし」は、「~だから」という意味を持つ京都弁だ。
(そうだから→そうやから→そうやし→そやし)
基本的には、理由を示す接続語として使われる。
ただ、東京出身のボクが、会話の中で
「そうだから」と言うところを「そやし」と言い換えたところで、
京都人が「そやし」を使う頻度には到底及ばない。
少々やっかいなのは、「そ」の部分だ。
「そやし、やめときますわ」などと、
何を指して「そ(う)やし」と言っているのか、
うやむやにされることが、しばしばある。
時には「…そやし…」と、全く意味を持たず、
間を置くように使われることすらある。
つまるところ、「そやし」を会話に使う時点で、
「どうか察してくださいね」と、言っているようなものなのだ。
ややもすると、察しの悪い人には、
居心地がよろしくなくなる雰囲気を醸す言葉かもしれない。
だが、それがいいと、あえて言おう。
何もかも意味をクリアにして話すことがあるだろうか。
何となくの空気を読みつつ、互いの間を詰めるのが、
コミュニケーション(意志疎通、相互理解)
というものではないだろうか。
…そんなことを思いながら、「そやし」という京都弁が醸す、
会話の特性を自分たちの仕事の信条にしようと、
企画・制作ユニットの名前を「Soyasii(そやし)」にしたのです。
そやし、改めてよろしくお願いいたします。
チームそやし・プランナー
三浦大治
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