2012年7月24日火曜日

足し算と引き算


パッケージの打合せ。

「粉末をくるむような構造で、柔らかいラインのもの」という
クライアントからのオーダーに沿うように、
開封する受け手はもちろん、梱包、発送する送り手のことを考えながら、
紙工業者さんとベースのデザインの試作を繰り返す。

もちろん印刷デザインのことも視野に入れるわけで、
どのように持ちかえられ、どのように中身の商品が目に飛び込むと良いか
なんてことを、ひたすら試作品をいじりながら考える。

時間をかければ良いものができる、などとは思わない。
考え過ぎて、「感じて欲しいこと」がバラついてしまっては意味がない。
次第に増えていくメッセージをある段階で整理して、
ある段階で、思い切って引いていかなければ、
受け取る人が「読みとろう」と思える何かを生み出すことができない。

肝心のは、送り手が「引き算」をし、受け手が「足し算」を行うコミュニケーションだ。
「感じさせる」のではなく、「感じられる」を目指さなければ、永く愛してもらえない。

「時間をかけて考えたんだろうなあ」と思われない、サラリとしたデザイン。

そんなものにしたいなあと思いながら、時間をかけてしまっている。
まあ、ここがこの仕事の面白いところなので、
「そやし…」という言葉を重ねながら、少しずつ「サラリ」に向かっている。

2012年7月20日金曜日

そのままで伝わる仕事


裏寺町通り付近、新京極通四条上ル中之町にある
喫茶点「回廊」は、繁華街の近くありながら静かな店で、
アポの合間の休憩や、ちょっとした打合せに何かと都合が良い。

きちんとネクタイを締めたマスターが、

オーダーを受けてから淹れてくれるストレート珈琲もさることながら、
人にお伝えしたくなるのが、このデザートセット。
「シ、シンプルですね…でも、食べやすさって、
こういうことですよね」というコメント聞きたさに、
初めてお会いする方との打ち合わせでは、必ず頼む。

何も考えずに並べたようで、向かい合わせに座る二人が
食べやすいように配置されたフルーツ。
ラム酒とブランデーに漬け込んだナッツ・フルーツを
たっぷり入れて焼き上げた自家製パウンドケーキは、、
果実の果てにちょうど良い風味と、マスターの緻密な計算が伺える。

見た目は華やかでも、食べにくい盛りつけのデザートプレートとは、
明らかに一線を画している(って、考え過ぎなのかもしれないけれど)
「つまり、こういうコンセプトですよね?」と、
聞くこと自体がヤボだなあと思わせるシンプルさ。

マスターに確認することは、この先もないだろう。
このテのことは、勝手に感じるものだろうし、
仮に聞いたとしても、その通りだとは言ってくれないだろう。

説明を必要とするのではなく、そのままで伝わる仕事をしたいものだ。
ということで、カウンターの向こうで黙々と珈琲を淹れる彼に
今日も密かな憧れのまなざしを送るのであった。


2012年7月14日土曜日

線香花火



線香花火は、日本の伝統的な花火の一種。
その名の由来は、香炉に線香のように立てて遊んだからというけれど、
こより状のものが立てられるわけがないなあと、少し調べてみた。

線香花火が現在のような形になったのは、
西で生まれた線香花火が、東に伝わってからだとか。

線香花火の原形は、竹ひごや藁でできた柄の先に火薬を付着させた
「スボ手」と言われるもので、主に西日本、関西地方を中心に親しまれていた。
それが伝わり始めた東日本、江戸では、藁などの材料が不足していたこともあって
和紙で火薬を包む「長手」が作られるようになった。

「スボ手」よりも燃焼時間が長く、ゆらゆらと揺れる風情もあってか、
「線香花火」と言えば、「長手」を指すのが一般的になったが、
西日本ではいまだに「スボ手」をイメージする人もいるそうな。

いずれにしても、現在の線香花火は、ほぼ中国産。
昭和50年以降、安価な商品が輸入されるようになって、
国内で線香花火を作る専門業者は、廃業することになった。
(線香花火は、免許の要らない「玩具花火」に分類されるので、
参入障壁が低かったんだろうなあ)

唯一と言われる業者は、北九州の「線香花火筒井時正」さん。
その伝統の火を絶やすまいと、素材と技術にこだわっている。
京都の「總屋」さんも、オンラインショップで国産線香花火を取り扱っているが、
おそらくこちらと一緒に取り組まれているものではないか。

2012年7月10日火曜日

非日常と日常


祇園祭の「鉾建て」で、各鉾町が賑わっている。
室町通に掲げられたこの画が、妙に馴染んで映ることからも、
いまが非日常的な時期だと分かる。

それにしても、木村英輝さんのイラストは力強く、分かりやすい。
ロック黎明期を駆け抜けた男 Ki-Yanを知らなくも、伝わるという意味で)

好き嫌いはあるのかもしれないけれど、そもそも京都の伝統というものは、
日常からはみだしそうな違和を取り込みながら、育まれてきたものだろうから、
「こうでなければならない」という制約からは自由なはずだ。

「伝統や文化が日常に息づく」というのは、ちょっと無理のある表現で、
非日常と日常の振幅を繰り返すこと、ハレとケがしっかりとあることが、
伝統と文化の豊かさを示すものだろうから、息づかいはもっと荒くていいのかも。
なんてことを思う、コンチキチンなシーズンである。