2015年2月5日木曜日

食い嫌い


【食わず嫌い】
1、食べたことがなく、味もわからないのに嫌いだと決め込むこと。また、その人。
2、ある物事の真価を理解しないで、わけもなく嫌うこと。

という意味なので、少なくとも一度は口にしたことがあり、
出来れば今後、食べたくないと感じる「好き嫌い」とは違う。

【好き嫌い】
好きなことと、嫌いなこと。また、えりごのみ。

…そうなのだ。「好き嫌い」は、何も食べ物に限らない。
さらに言えば、「好き」と「嫌い」の二元論では語ることのできないケースがある。

・「口にしたくない」というほど嫌いではない。
・別の食材との組み合わせであれば、むしろ好きな時もある。
・しかし、その食べ物を単体で勧められると、それとなく拒否してしまう。

といったグレーゾーンの食べ物が、誰にだって存在するはずだが、
公言するほど、くっきりと「嫌い」のカテゴリーに入れられるわけではないので、
淡い領域を表現する言葉が存在しないのも仕方がない…仮に「食い嫌い」としよう。

ボクにとって、それは「梅干し」であった。

「食わず嫌い」のもう一つの意味、
「ある物事の真価を理解しないで、わけもなく嫌うこと」に照らし合わせても、
真価(栄養価?)も理解しているつもりだし、何となく嫌うわけも分かっていた。

イメージの問題である…梅干しには、祖母のイメージが重なるのだ。
立派なオッサンとなった現在では、何と言うことのない単なる幼少期の印象に過ぎないのだが、
「嫁に厳しい姑」というトラディショナルなコミュニケーション・スタイルを取っていた祖母の面影は、
梅干しという食べ物に深く刻み込まれてしまい、「刷り込み」のようなものが起きていたのだ。

「なんじゃ、そら?」…改めて、そう思う。

繰り返しになるが、もはや祖母に悪いイメージなどない。
であれば、そろそろ呪縛から解き放たれても良いのではないか?

白ご飯に、梅干し一つだけでいかにも美味そうに食べる人を羨むこともなく、
弁当屋の配慮に「いらぬことをしおって」と、紫蘇色の部分を避けて食べることもなく、
和歌山に観光に行くという人の土産にヒヤヒヤすることもなく、
梅干しを克服しなければならないと思ったわけである。


というわけで、デパ地下で調達してきた良さそうな三種の梅干しを
(もじもじと冷蔵庫に寝かせた二週間後に)食してみた
…のだが、何と言うことなく、実にあっさりと「克服」することが出来た。

ポイントは、「梅干しが大好物」という人と一緒に食べたことだろうか。
美味そうに食べる人の前で、アクセルだかクラッチが踏まれたのだろう。
拍子抜けすると同時に、実にモッタイナイ人生を送ってきたという後悔の念が沸いた。

この話には、何らかの教訓があるとすれば、
「思い込みなど、とっとと消化してしまえ」なのかもしれない。
しっかり味わう必要もあるだろうと、とりあえず書いてみたが、
実に小さな、「言葉に出来ない」感覚の話である。

2015年2月3日火曜日

四方参り



義父と義母に誘われて、「祇園さんの節分会」が催されている八坂神社まで出かけた。

境内(舞殿)で豆まきがあり、四花街による舞踏奉納も行われるとのことだったが、
タイミング悪く、着いた頃には、もろもろ終わってしまっていた。
…のだけれど、境内には、空くじなしの景品抽選券付きの「福豆」を求める人が多く残っていた。
列をなす人たちの手には、他の神社や寺の名前が書かれた紙袋があり、
「節分」がなかなかのイベントであることにようやく気付いた。

住まうようになって十数年経つが、
京都に「四方参り(よもまいり)」という風習があると初めて知った。
観光情報サイトに、次のような説明があった。

季節の変わり目には邪気(鬼)が生じ、陰と陽の境目にあたる北東(丑寅:うしとら)の方角は
気が不安定と考えられ、鬼が出入りする方角を鬼門として
平安京遷都のころより、京都では御所の四方の鬼門を護り、邪気を祓います。
邪気(鬼)は北東の表鬼門にあたる「吉田神社」に現れ、追われ、
次に南東の「八坂神社」(または伏見稲荷大社)に現れ、追われ、
南西の裏鬼門「壬生寺」に現れ、追われ、最後に北西の「北野天満宮」の現れます。
そして北野天満宮では鬼を追わずに末社の福部社の中に鬼を閉じ込めてしまいます
(鬼は後に吉野で改心するそうです)。
京都では厄除節分会に鬼門にあたる四つの神社仏閣にお参りをすることを
「四方参り(よもまいり)」といい、千年程前から邪気を祓い、一層の福を招くと言われています。

北東「吉田神社」→南東「八坂神社(伏見稲荷大社)」→南西「壬生寺」→北西「北野天満宮」と、
さながらオリエンテーリングのように巡るのは、なかなか面白い。
クリスマスやハロウィンにはない具体的な手順とアクションがあるのが味わい深い。

それにしても、節分は邪気を祓い、無病息災を祈念する行事のはずだが、
「鬼は外、福は内」というように、セットで福を招こうというのが庶民の文化っぽくて良い。
そんな風に感じるのは、「厄除け」という文言に目が留まる年齢になったからか?

「悪いことがなければ十分ですよ、おまけに福まで招こうなんて欲張りなこと言いませんから」
ん?そもそも、これは誰に伝えるんだ?鬼?神?仏?…日本人の信仰心って不思議だ。
…とか言いつつ、今年は出来なかった「四方参り」を来年は体験してみるつもりである。


越える/超える


先日、全国「玉露のうまい淹れ方」コンテストの京都府予選に参加した。
あまりない機会なので、息子も一緒にエントリー。画像はその様子を紹介した新聞記事。

「見知らぬ大人たちと茶の淹れ方を競う」と事前に知ったら、
抵抗を感じるかもしれないなと、詳しい説明をしなかった。
別テーブルにいるボクと目が合うたびに、恨めしい表情を浮かべてみせたが、
それ以外は、記事の写真のように真剣な表情で、
自分の急須や、他の「選手」の所作を見ていたように思う。

ボク自身が、日本茶・宇治茶に興味を持つようになってから
彼も、「お茶を淹れる」という行為をごく自然にするようになった。

常日頃から意識しているわけではないが、
子供に何かを伝えることができているようで、好ましい状況だ。
…というのは、親であるこちらの感じ方に過ぎず、
子供である彼には、「受け継いでいる」という感覚などないだろう。

お茶屋のご主人直々に、淹れ方のコツを教えてもらったことが嬉しかったのかもしれない。
上手に淹れることのできた茶を母親に褒められたことが良かったのかもしれない。
どこまで自覚しているかは分からないが、「何かイイ」のだろう。

「伝統文化を継承する」というのは、義務ではなく権利なのかもしれない。
知識として学ぶ「モノ」ではなく、感覚として受け入れる「コト」なのだろうなと。
(生産が減っているというデータからではなく、美味いから玉露を大切にしよう)

「世代を超え…」という記事の見出しを読んで、おや?と思った。
(この記事における正しい漢字はどちらか、ということではなく)
はたして「世代」は、「超える」ものか、「越える」ものかと。

「超える」は、「基準・限度・範囲・数量・程度」に対して、
「越える」は、「場所・地点・障害・時期・権利」に対して使う。

伝える義務を持つ側/受ける権利を持つ側、双方のことを考えると、どちらも重要だなと。
…イベントとその紹介記事から感じたことを徒然なるままに書いてみたわけだが、
「何かとても大切なこと」に近づいたような気がしている。

「文化」、「伝統」といった言葉を目にするたびに、どこか落ち着かない部分を
埋めることができるかもしれないといった感覚だ。
その「こえるべきこと」については、じっくりと考えるとしよう。玉露でも淹れながら。