2015年2月3日火曜日

越える/超える


先日、全国「玉露のうまい淹れ方」コンテストの京都府予選に参加した。
あまりない機会なので、息子も一緒にエントリー。画像はその様子を紹介した新聞記事。

「見知らぬ大人たちと茶の淹れ方を競う」と事前に知ったら、
抵抗を感じるかもしれないなと、詳しい説明をしなかった。
別テーブルにいるボクと目が合うたびに、恨めしい表情を浮かべてみせたが、
それ以外は、記事の写真のように真剣な表情で、
自分の急須や、他の「選手」の所作を見ていたように思う。

ボク自身が、日本茶・宇治茶に興味を持つようになってから
彼も、「お茶を淹れる」という行為をごく自然にするようになった。

常日頃から意識しているわけではないが、
子供に何かを伝えることができているようで、好ましい状況だ。
…というのは、親であるこちらの感じ方に過ぎず、
子供である彼には、「受け継いでいる」という感覚などないだろう。

お茶屋のご主人直々に、淹れ方のコツを教えてもらったことが嬉しかったのかもしれない。
上手に淹れることのできた茶を母親に褒められたことが良かったのかもしれない。
どこまで自覚しているかは分からないが、「何かイイ」のだろう。

「伝統文化を継承する」というのは、義務ではなく権利なのかもしれない。
知識として学ぶ「モノ」ではなく、感覚として受け入れる「コト」なのだろうなと。
(生産が減っているというデータからではなく、美味いから玉露を大切にしよう)

「世代を超え…」という記事の見出しを読んで、おや?と思った。
(この記事における正しい漢字はどちらか、ということではなく)
はたして「世代」は、「超える」ものか、「越える」ものかと。

「超える」は、「基準・限度・範囲・数量・程度」に対して、
「越える」は、「場所・地点・障害・時期・権利」に対して使う。

伝える義務を持つ側/受ける権利を持つ側、双方のことを考えると、どちらも重要だなと。
…イベントとその紹介記事から感じたことを徒然なるままに書いてみたわけだが、
「何かとても大切なこと」に近づいたような気がしている。

「文化」、「伝統」といった言葉を目にするたびに、どこか落ち着かない部分を
埋めることができるかもしれないといった感覚だ。
その「こえるべきこと」については、じっくりと考えるとしよう。玉露でも淹れながら。

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